マンスプレイニング
マンスプレイニング(Mansplaining)は、男性が女性に上から目線で説教をしたり、見下すように何かを解説したり、知識をひけらかしたりする行為のことで、Man(男性)とExplaining(説明する)を掛け合わせた用語がもとになっています。
マンスプレイニングは、相手を無知な存在とみなす不当な差別に他なりませんが、多くの女性が経験する事例として、以下のような行為が具体例として挙げられます。
・こちらの言い分を遮って自分の主張を声高に話す。
・聞いてもいないことを解説したがる。
・女性だからこうなんだ、と固定観念の押し付けをする。
・マウントを取りたがる。
・自分の方が知識があり、相手は知らないと最初から決めつける。
マンスプレイニングをしてしまう人は親切心で「教えてやる」つもりで話をしていますから、相手が不快に思ったり、それによって傷ついたりしていることに想いが至りません。
人に解説や説明をする行為自体はもちろん悪いことではありません。マンスプレイニングが問題視される理由は、それが「相手の女性は、自分より無知だ」との思い込みがベースにあり、その偏見からくる行動(偉そうに見下す)になりがちになることです。
コミュニケーションという側面で捉えれば、相手に対する配慮や尊重する気持が足りていないということになりますが、これは私たちの提唱するアサーティブ・コミュニケーションのあり方からも反しています。
「自分の方がいつも正しい」「常に上に立ちたい」「周囲の(特に女性から)よく見られたい」という深層心理が関係しているとも言われています。同時に、自分に自信がない人もマンスプレイニングの傾向がより顕著になるとも言われていますが、このような心理が働いてしまう背景としては、亭主関白だったり男性優位な環境で育ったりとの生育上の背景もあるとの指摘もされています。仕事やコミュニティでの役割に、性別上の偏りが生じる社会構造そのものが根本にあることは(特に日本では)間違いないことと思われます。
医療の世界は医師が階層の最上部に立つヒエラルキーの構造になっておりますので、もともとマンスプレイニングが発生しやすい労働環境と言えるのではないでしょうか。
2024年6月9日の朝日新聞にマンスプレイニングに関する興味深い記事が載っていました。「言葉の風景、哲学のレンズ」などの著作のある、哲学者の三木那由他さんへのインタビュー記事です。
記事の冒頭の発言を紹介します。
マンスプレイニングが、ジェンダー間の行為に限らず、個人の性格による問題では、と指摘する声がありました。確かにコミュニティや個人の関係性によっては女性が男性に説教する場面もあるでしょう。それでも、この社会のデフォルト(初期設定)が男性中心なのは否定できず、議論すべきなのは性差別の構造だと思います。私はトランスジェンダーということをオープンにしており、性別移行の過程で「男性扱い」と「女性扱い」の両方を経験しています。たとえば仕事について聞かれた時、性別移行前(男性の時)は自分の研究の話をしても「難しいことをしているね」くらいでしたが、性別移行後(女性になってから)は専門家でもない男性から研究の進め方を説教されることが増えました。
そのように語った後、次のように指摘しています。
マンスプレイニングに直面した時、当事者の女性はどうすればいいのか。女性同士で語り合い連帯できることもありますが、マンスプレイニングをうける側が声を上げるのは負担が大きいです。ある男性がマンスプレイニングをしている時、それを同じ男性側が止めるのは、女性より容易だと感じます。男性自身が男性優位の社会構造を変えるために力を使ってくれたら、こんなに力強いことはありません。
マンスプレイニングは、社会に横たわる男女の権力格差と結びついて起こります。「説教する、される」が日常的に起こる社会のしくみ、それに結びつく権力の構造に注目する必要があります。
医療の現場で、たとえば医師から他のスタッフへマンスプレイニングが行われていないか、あるいは医療スタッフから患者さんへ行われていないか、改めて検証することも時に必要かもしれません。上から目線の「説教」には、相手を対等な存在でないとみなしていることがあらわれています。このようないびつなコミュニケーションの問題は、男女格差やマイノリティーへの抑圧など、社会に巣食う不平等と排除にも通じていると感じます。
(医療コミュニケーション協会 須田)
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