インフォームド・コンセントは機能していますか?
医療従事者には、黄金律として「ピポクラテスの誓い」が存在し、その起源はいにしえのギリシャにまで遡ると言われています。「ピポクラテスの誓い」の基本的な概念は、「医療者は患者の生命を救うために最善を尽くす」ということになろうかと思いますが、その根底には「生命の尊厳の立場から、延命すること」が唯一・最大の目的とされてきました。
その根本目的を実現するために医療者は、いつのまにかパターナリズム(父権主義、温情的干渉主義)を主軸に患者に接するようになりました。すなわち、「医学の専門家の私がやることに間違いないのだから、あなたは私の言うことを受容すればよい」という、患者の自主性を無視する態度を当然のこととして医療は進展してきたのです。
しかし、近代、時代の変遷と共に医療のあり方そのものも大きく変化していきます。延命医療は大きな発展を遂げ、生殖医療や遺伝子治療などの高技術医療が実現し、医療の選択肢は加速的に増えていきました。その中で、治療選択は医師が決定するものではなく、患者の自己決定権を第一に考えるべきだという判断軸の返還が求められ、患者中心の医療、チーム医療に医療の方向性が舵取りされ、医療を受ける主体である患者本人の自主的判断(自発的承認)が何よりも優先されるべきだという流れに変革していきました。ここで注目されたのがインフォームド・コンセント(十分に説明された上の同意)というプロセスの重要性です。
インフォード・コンセントの重要性が注目を浴び始めてから、その方法にも変化が表れています。当初は、医師が患者に一方的に情報を与える「情報開示モデル」が主体でした。まだまだ、パターナリズムの色合いが濃厚だったのです。その後、次第に双方向的な会話にもとづく「会話モデル」が主流となってきました。患者からも十分に話を聞き、共感を示すというスタイルです。しかし、一方でインフォームド・コンセントの発展に比例するように、会話上に起こる様々な問題も浮かび上がってきました。患者と医師の同じ「単語」における理解の差、患者が病める人であるがゆえの合理性の欠如、合理的であったとしても判断材料を全て提示しなければならないことの是非。このような指摘が医師から出されるようになります。
さらには、インフォームド・コンセントの概念に照らし合わせれば、患者はこれから行われる医療行為に関して「知る権利」があるということになりますが、たとえば癌の告知に関し、たびたび問題になるように、「知りたくない権利」を主張する患者も多いはずです。その場合、医師は癌であるという病態の告知のみならず、今後の治療方針も詳細に語ることができなくなります。同意なき上のインフォームド・コンセントは、患者の「知りたくない権利」を犯したことになり、インフォームド・コンセントを「行わなかった」こととは別の観点から、医師の責任が問われることになりかねません。
医療者は、インフォームド・コンセントを行う際、「知りたくない権利」や、「医療のことは解らないのですべて先生にお任せしますよ」といった、自己判断、自己決定を放棄する権利も発生することを踏まえながら実施するという、難しいかじ取りが時に必要になります。「患者が話を聞くことを拒否する、あるいは自己決定しない」場合、医療者側は、インフォームド・コンセントから穏やかなパターナリズムに移行させていく必要が出てくるのではないでしょうか。
上記のように、治療方針の決定の歴史は,パターナリズムからインフォームド・コンセントへの変換と言えます。これは「同意」から「合意」への変遷であるとも言えるでしょう。しかし、上述したように、一概にパターナリズムは、「患者主体の医療」から完全にかけ離れ廃れた概念だとも言い切れません。たとえば、高齢者の医療や緊急を要する患者、意識障害のある患者に対しては、インフォームド・コンセントを得ることは困難な場合が多く、患者の自律性、自己決定を確認せずに医療を開始せざるを得ないケースは日常的に発生します。従って、パターナリズムに近い医療が行なわざるを得ない場合はその医療行為は正当化されなければならない、という前提に立つべきだと考えます。
インフォード・コンセントにしろパターナリズムにしろ、どちらを選択するにしても、医療者に求められるのは高度なコミュニケーションの技法です。よく言われることですが、患者は医療者の発する言葉に非常に敏感で、その一挙手一投足に注目しています。そして、医療者の言葉を過大解釈も過小評価もします。当協会のPRをするつもりはありませんが、できれば「対話の基本」はしっかりと学んでいただきたいと思います。
(医療コミュニケーション協会 須田)
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