「共感」が大事だというけれど、「共感」って何?
コミュニケーション系のセミナーや研修では、必ずと言ってよいほど「共感」の重要性が語られます。そして、私たちの日常の会話の中にも、「共感」というフレーズは頻繁に出てきます。たとえば、「君のその考えに共感するよ」と言うように。そして、相手と心の深いところで理解し合えるかどうか。「共感力」のあるなしはそこが問われることになります。
レストランでの会話
先日、とあるレストランで次のような経験をしました。
私の隣のテーブルは若い女性客が4人。食事は終わり、皆マスクをしているものの、かなり大きな声で話すので、私にもその内容までが聞き取れます。
ある一人の女性が職場で経験した不快な体験を語り、他の3人が聞き役になっているようです。語る女性は、同じセクションの先輩に、かなり理不尽な要求を突き付けられ、おかしいと思いながらも要求に応えた模様。ところが、そのセクションの管理者(部長)に、「それは違うだろう!」と一喝されたということです。部長は、その女性が独断で行ったことだと判断したようです。
ところが、実際の依頼主である先輩は助け舟を出すこともせず、挙句の果ては「私が依頼したのは、そうじゃない」と、依頼内容を履き違えて解釈したあなたが悪いと言わんばかりの態度。
「もう、悔しくて、悔しくて」
女性は3人の友人たちの前でそう言い、涙が溢れそうになるのを堪えているのが見てとれます。
すると、3人のうちの一人が、
「その気持ち、わかる」と言い出し、あとの2人も「あるよねえ、そういうこと。わかる、わかる」と、揃って同情の意を示しました。
本当に相手の「気持ち」をわかっているのか?
みなさんは、非常に嫌な経験や、この女性のように悔しい思いをしたときに、周囲の人から「その気持ち、わかる」と言われたら、「ああ、私は共感されている」と感じますか?
もし、私がこの女性であったら、「共感」ではなく「同情」を強く感じるでしょう。なぜなら、「私の辛さをわかってほしい」という反面、「そんなに簡単にわかってほしくない」と思っているからです。「わかるはずがない」とも思っているかもしれません。
このケースのように「わかるよ」とすぐに同意を示された時、人は「共感」よりも「同情」を感じ、時に「同情」は自分の哀れさを増長してしまう逆効果を果たすこともあります。
あくまで女性が受けた「理不尽な思い」や「悔しさ」や「怒り」は、この女性特有の感情であり、他人がそう簡単にわかるはずがないものです。
「共感」の本質とは?
このケースのように「共感」が「同情」と取られてしまうのであれば、「共感」とは、どうやら「相手が自分と同じ気持になってくれる」ことではなさそうです。
それでは、「共感する」もしくは「共感してくれている」のは、どんな時だと理解すればよいのでしょうか?
さほほどの、4人の女性の場合で考えると、「そうね、あるよね、そういうこと」といった聞き手の「同情」は、「そのような理不尽な目にあったことは、私もある」といった過去の状況を想い出し、「あなたの気持ちは、あのとき私が感じた気持ちときっと同じですね」と示しているにすぎません。
でも、話し手の複雑な感情は、本人しかわからないものです。
胸に渦巻いている悔しさや、怒りや、無力感は、その時の、本人の独自の感情です。もしかすると、死にたいと思うような切実な想いも抱いているかもしれません。それなのに、「その気持ち、わかる」と見透かされたように言われてしまったら、「そんな簡単にわかるはずがない」と、抵抗を感じてしまうのは当然のことだと思います。
コーチ、カウンセラーの「共感」
コーチングやカウンセリングでの「共感」は、「相手の理不尽さ」や「理不尽な目にあわされたときの気持」に対して「わかる」と示すことではありません。
相手が受けた理不尽さによって、相手が今味わっている「感情」を「できるだけ知ろうと努力する」ことだと考えます。
話し手は、今、自分が抱いている複雑な感情を、聞き手が一生懸命知ろうとしていることに気づいたとき、「私は共感されている」と思うのではないでしょうか。
(医療コミュニケーション協会 須田)
この記事へのコメントはありません。